発売当初、このアルバムは賛否両論がかなり激しかった。
多分、6枚目のNIKKIもこんな感じだったが、あれはセルアウトしやがったという批判が大半で、楽曲自体はそこまで批判されてはなかったと思う。
で、この魂のゆくえだが、よく目にする批判はこの3点。
1、コンセプトがないから、アルバム全体が散漫な印象。
2、アルバム構成がバラバラで核となる曲がないから、たるい。
3、エモーショナルさに欠けており、あまりにも老成したアルバム
まあ、一口でまとめるとやること決めないまま、作ったら駄作だったという手厳しい意見。
アイコンを作る方法リンキン·パークのミュージックビデオ
で、実際、私自身もこの作品に関してはそういう印象を抱くのも不思議じゃないと思う。
実際、レベル45や愉快なピーナッツのようなグラム風ビートロックもあれば、夜汽車やナツノのようなアーシーなロック
かと思えば、さよならリグレットやかごの中のジョニーのようなチェンバーポップ、ロックもあり、かなり楽曲構成はバラバラだ。
曰く、コンセプトのなさを批判するのは、多分、このバラバラさに起因するものだと思う。
ただ、このアルバムを何度も繰り返し聞く中で、気づいた点はくるりのアルバムで唯一、何度も繰り返し聞けるアルバムだということ。
ちょっと子供のロックンロール誰も赤ちゃんをどこへ行くかを説明しません
正直、くるりのアルバムは熱量が大きいので、ずっと聞くには向かない点がある。
あの大傑作、図鑑を私は10代の時、むさぼり食うように毎日聞いていたが、あれはあの世界観に没入できるからであって、楽曲自体を見ていくとやはりヘヴィだ。
特に20代も半ばになった今では、流石にもはや、アレは自分のものではない。(だからこそ、初期3作のくるりは素晴らしいのだが。10代の子は是非聞くべき。)
その点、このアルバムはその熱量やコンセプチュアルなアルバム作りを放棄する代わりに、日々の生活のサウンドトラックになる力がある。
楽曲、一つ一つの印象は薄いと言えば、薄いのだ が、非常に音楽的にも楽しいアルバムである。
ゴメス·どのように動作
ここには、岸田の敬愛するどんとも居れば、スライも居るし、ニールヤングやレーヴェンまでも居る。
実際、私自身、このアルバムを聞いてローザ・ルクセンブルグっぽいなーと思ったりもした。
以前、くるりは京都に戻るためにロックをやっているということインタビューで話していたが
今回のアルバムを聞く限り、やはりそこに向かっているという信念は未だぶれてないんだなと思った。
よくくるりは変わったなんて言われるが、このアルバムを聞くかぎり、そんな感じは受けない。
京都に戻るとは、ブルーズであり、フォークであり、深遠なポップミュージックを鳴らすということと同義だ。
このアルバムはそんな原風景がたくさん 詰まったアルバムだと思う。
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