●本物になりかけているミーム例ですか ピラミッドとか
ラスコーの壁画 とか いろいろあるでしょう。
●モーツァルトでもバッハでも こころを楽しませるひとつとして
捉えたほうが 間違わないようにおもいます。
あなたが死ぬ時 耳にしたいのは小鳥の鳴き声ですか? バッハですか?
すべてのミームは こころの楽しみではあれども こころが
とけてゆく行き先にはなりえないのです。
人も歌うことができる。けれども人の歌はオウムやインコのまね声と同質のもので
ミームです。とてもこころの行き先に選べるものでは ありません。
ミームがうそつきだとおもう姿勢は 将来を悲観していることでは
ありません。まちがわないための 方法論として 言っているわけです。
あなたのようにミームを肯定しているひとこそ ミームのレトリックのなかで
生き死んでゆくのです。脳の処理をわざわざ風船に置き換えたり。
自分を波頭に置き換えたり。ミームのレトリックの愚そのものですよ。
わからない事にまっすぐ向かえばいいだけなのです。
言葉を美化しすぎているか 分かっていないか いずれ間違っています。
●経済というミームの化け物ですが あなたはたぶん経済についても
あまり知らないと思いますので 多くを語ることは止めにします。
理解できないでしょうから・・・。
でも考えを進めるヒントを書いておきましょう。
※お金をコントロールしているのは何か?
※物をなぜお金に置き換えたのか?
※通貨崩壊はなぜ起きるのか?
※ほとんどの仕事は機械がしているのに なぜ依然として人は働かなければ
ならないのか?
ま このへんを考えてみてください。
●ミームに希望を持つ姿勢が あぶない理由。
自我そのものが幸せを指向するのです。だから ミームに希望を見出そうとすることは
自我を無視してしまう可能性があるのです。
ひらたく言い直しましょう。
自分でいいもわるいもわかるんだから 外部に価値観を見出す必要はない
ということ。ミームのいいものは だまっていてもはいってきますよ。
ひとそれぞれに その人のなかにはいってきます。
そのミームを肯定することは 他人にそのミームを強要する危険をふくむし。
それを肯定できるほど ミームは確かなものではないし。
自我とは 次元の違うものなのです。
●あなたと 話していて 非常にすすむのが遅くって疲れてきました。
あなたは あなたなりに いくらかは進んだでしょう。
でも わたしから傍観すると また同じレトリックにはまっている感じが
ぬぐいきれません。今回はこのくらいで いいのではないでしょうか・・・。
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この回答への補足
ここでは、いくら言ってもあなたへの感謝の気持ちは表せません。
僕の生き様にそれは示されます。半泣きですが泣きませんよ(笑)。
この回答へのお礼
>あなたが死ぬ時 耳にしたいのは小鳥の鳴き声ですか? バッハですか?
人の声です。わかっています。わかっているんですが、それが生き様というものです。心がとけて行く先は心にあります。しかし、僕は死ぬときにも生きているのです。ほんとに安っぽい事を言ってしまいましたが、、。小鳥が歌を歌っている。しかし、歌っているのは小鳥だけじゃないのです。叙情の真理がそこにあります。叙情が偉大で、素晴らしいわけです。
>ミームのレトリックのなかで生き死んでゆくのです。
それができるということの勇気を、僕は今わかりました。
>自分でいいもわるいもわかるんだから 外部に価値観を見出す必要はない
そのとおりだとおもいます。これはかなり大事な事です。しかもわかりやすい。
ですから、ミームに対する姿勢だとか、どうでもいいことです。「ミームのいいものは だまっていてもはいってきますよ。
ひとそれぞれに その人のなかにはいってきます。 」そのとおりだと思います。しかし、あなたがミームはうそつきだとする姿勢は、啓蒙的で、非常に意味を持ちます。あなたには、もはやそういう姿勢は必要でないのではないでしょうか?
しかし、そういう姿勢の中で生きるということに勇気はありません。そこで、それをあなたが言う。それが勇気あることです。今、あなたの勇気が見えた気がします。
>また同じレトリックにはまっている感じがぬぐいきれません。
僕はまだぬぐいきれてません。事実僕はたくさんしゃべります。それ自体は別にまぁいいんですけど、ぬぐいきれていないという実感はもっています。
>わからない事にまっすぐ向かえばいいだけなのです。
いや、そうですね。やっぱり素晴らしい事をいいますね。しかし、気付かない人、つまり、かつての僕にこれを言ったとしても、それは虚空を舞うだけです。ミームからはまずミームで連れ出すのです。
それから、あるがままに。ですから、僕らが、波頭や、風船やの話は、些細な事ですが、このことの意味は大きいのです。もちろんいまのchihokoさんのようなかたには意味がないのです。ですから、愚を愚という事が、どうでもいいことなのです。しかし、chihokoさんの立場で言うとそれは啓蒙的な意味を持ちます。僕にしたら、ありがたいことです。あなたのような姿勢をとると、心を打たれるのです。
ミームで連れ出すという行為は果てしなく遠回りです。心を打たれるようなことが、ミームで閉ざされているのです。気づけば簡単ですが、気付かなければ果てしないです。あるがままというのは、距離はないのに遠いのです。言うまでもないですが、chihokoさんは気付いています。
>そのミームを肯定することは 他人にそのミームを強要する危険をふくむし。
なるほどです。
>自我とは 次元の違うものなのです。
そうです。
>あなたはたぶん経済についても
あまり知らないと思いますので 多くを語ることは止めにします。
あまりどころかほとんど知りません。でもわかると思います。多くを語らないで、大事なトコだけ語ってください。ご助言していただいたことについて考えておきます。でも、僕に多くが必要ならそうしてください。
>あなたと 話していて 非常にすすむのが遅くって疲れてきました。
あなたは あなたなりに いくらかは進んだでしょう。
申し訳ないです。僕がべらべらしゃべるので、つかれたんでしょうか、、。回答者の親切な対応に、甘えてしまうのです。申し訳ないです。今までの回答者の方も、ずいぶん疲れたと思います。その事で僕は進むんですが、、本当に申し訳ないです。本来的には人に聞く事でないことを僕の言葉で人に聞き、人に考えてもらい、それで自分の考えをすすめているのです。愚ですね。
>今回はこのくらいで いいのではないでしょうか・・・。
chihokoさんがいいと思うならそうしてください。。でも、僕はあなたと話す事で進む事がまだあります。それがなくなったときは、十分です。出来たら来て欲しいのは、何故なら、故郷に帰りたくなるのは当然です。故郷を教えてもらったといえます。しかし、あなたにまかせます。気付いてもらえますか?あなたには本当に感謝しています。忘れないほどに感謝しています。
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